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日の目を見る7

2011/04/12 Tue 18:00

 川崎市によって編集費用が用意されると、これはお仕事です。いい加減には進められません。構成編集は川崎市立日本民家園と共に行います。
 先ずは倉庫に保管されていたアナログベータカムの記録ビデオテープを出してこなければなりません。そして、編集作業は、アナログベータカムに時代には「リニア編集」と呼ばれるアナログな仕組みでしたが、現在では「ノンリニア編集」へと意向しています。そこで今後の様々な展開も配慮しアナログデータをデジタルデータ化しました。そして、そのデータをパソコンへ取り込みます。ここまでの作業は蘭さんが黙々と粛々と行ってくれました。この地味な作業を行うのは大変なんですよ。

 デジタル化されパソコンで観られるようになったら先ずは試写です。ロール1から順番に試写します。このロールという単位は、フィルム時代からある単位でフィルムひと巻きを1ロールと呼びました。撮影用ネガフィルムには一巻、100feet、400feet、1000feetと三種類あります。フィルムの長さに関わらず一巻きを1ロール(わんろーる)と呼びます。フィルムの場合少しややこしいのは、撮影途中で切り出したりする事がある事です。すると400feetの長さのフィルムが、例えば220feetと180feetに分断されたりします。するとこれは2ロールなんですね。切れていないひとつながりのネガフィルムを1ロールと呼ぶ訳です。
 その名残で、ビデオ時代に入ってもビデオテープ一本を1ロールと呼びます。ただし途中で物理的に切ったりする事はないので、ビデオテープカセット一つが1ロールですね。
 この1ロールの中で時系列が狂う事はありません。特にビデオテープは一度撮影した部分に再使用が可能ですが、プロの現場では基本的に一回しか使いません。理由は二つあります。
 ひとつは、二度目からノイズが発生する確立が高くなり危険である事。原則としてノイズの発生はNGです。だめって事です。もう一つは、上書きする為に巻き戻したりして、必要な部分を消してしまう危険があると言う事。撮影中に失敗が分かる場合は多々ありますが、その失敗部分のビデオテープを使う事は、上記二つの理由で行わないのです。「取材中は原則的に巻き戻しは絶対に行わない」が原則なのです。再生チェックをする場合は、その日の収録が全て終了したとか区切りのちゃんとした時間に行います。でないとですね、収録済みを消してしまう危険があるのです。実際消えてなくなった事も大概の人が経験していると思います。
 で、時系列に並んだ旧太田家復旧作業を1ロール目から順番に試写するのです。細かい説明など聞く事もなく、また、20年も前の事を鮮明に覚えている人もいないのです。しかし、罹災消失した民家を再現するという基本のストーリーは不変ですから、順番に眺めていれば大体わかるんです、普通は。
 ところが、この作品は一筋縄では行かなかったわけです。・・・つづく
をはら筆
映像作品から
明日、所長姫田が使用する映像の編集作業の仕上げを行った。民映研作品No56「わたしたちのまち・自然・いのち」34分と民映研作品No57「陸奥室根の荒まつり」57分と民映研DVD作品「遥かなる記録者への道」75分と一本化し60分以内にする仕事。
「わたしたち~」と「室根~」を合わせて29分30秒にした。残りは30分30秒なり。「遥かなる~」を約45分の映像を切って捨てる作業。義理も人情もない非常な世界。有無を言わせずばっさりといくのだ。幕末の京都を行く岡田以蔵の気分。
映像製作とは、グループワークです。様々な職種が知恵を出し合う仕事です。様々な職種をまとめる業種が監督業。映画の筆頭の代表者が監督で何かにつけて個人名で登場するので監督が一番偉いと思っている方もいると思われますが、黒沢明クラスならいざ知らず、監督は現場監督以外の何者でもないのが事実。
数ある映像の職種の中から私は「撮影」を選択した訳です。ですから、キャメラマンとして撮影に責任を持っていれば本質的には十分です。しかし、記録映画・ドキュメンタリーの世界では職種の細分化はあまり行われていません。なぜか?第一には低コスト主義、いやいや貧乏だからです。資本主義経済の底辺を汚す程度の必要性しか認識されていないからでしょうか。チェーン展開するほど儲からない業種であるのです。
ですから、一人なん役もこなす旅一座的システムなのです。所長姫田も決して器用な方ではありませんが、映画用録音機で同時録音を行う事も出来ましたし、スタッフのやりくりが付かず所長自らキャメラを回す暴挙も存在します(某作品にそのカットが採用されているのですが、本人は必ず「これは僕のショットだ」と言い添えます)。
で、私も映像製作のほぼ全てを行う事が出来ます。若輩の頃から民映研へ出入りしていたお陰でもあります。撮影以外の職種で何が好きかと問われれば「編集」と答えます。情け容赦ないハサミが使えるのです。はい、ただの自慢です。
「遥かなる~」でも自慢のハサミを使いまくりました。をはら方式の編集は行ったり来たりしません。新作ならば頭から順番に画を並べ音を足し文字を加えながら、端から完成させて行きます。普通は画を最後までまず並べてから、その他の細かい部分に手を付けるのですが、をはら式編集論はちょっと違う訳です。短縮版編集もファーストカットから順番に切って足して行きます。取り敢えずとか、仮にとか無いのです。30分なら30分に仕上げる。取り敢えず40分にしてあとからもう一度10分切るとかの計画は無いのです。端的に言うと無計画にばっさりばっさり切って行くんです。ですから「オレはマジ天才かもしれない」と本気で年中、感じたりします。
下打ち合わせでの所長姫田のアイデアを取り入れながら、切り刻んだ「新編・遥かなる記録者への道」は自慢の一品に仕上がりました。是非本編と新編を比較してご覧頂きたいのは山々ですが、この短縮版は一般公開用作品ではありませんので、みなさんのお目を汚すチャンスはないですねー。残念。
明日は日本映画大学で「スタートアップ演習」が行われます。各授業がプレゼンテーションを行い、学生はどの授業を履修するかの判断材料にするのでしょうか?所長姫田も特別授業を受け持つので、明日2時間半のスタートアップ演習を開講するのです。それに使用されるのが、突然思いつき編集された1時間の本作品なのです。東日本東北大震災大津波を受けて、民映研作品から三陸が登場する二作品を折ませたスペシャルバージョンです。繰り返しテレビで流れた被災地の風景や津波の映像が脳裏にある学生諸君は、本作品から何を読み取りますかねー。所長姫田渾身の一作。返す返すも一般公開作品でなく残念だ。
をはら筆





映像作品から

短縮改訂版三連発

2011/04/09 Sat 20:02

 4月12日火曜日に使いたい映像を作って欲しいと所長が言う。言うのは自由で無料で何でもあり。それをうっかり聞くのは自由で無料なのだが、実際に作業に入ると集中力と時間を多用する。で、私はうっかりその所長の言葉を聞いた。あらら。全ては自分の責任で様々動き始める。
 命題は、民映研作品No56「わたしたちのまち・自然・いのち」34分と民映研作品No57「陸奥室根の荒まつり」57分と民映研DVD作品「遥かなる記録者への道」75分と一本化し60分以内にせよ。
 合計166分、2時間46分を60分に短縮する。ほー。
 果敢に挑む。34分の「わたしたち~」は必要な宮城県気仙沼市大島十八鳴浜の話だけ取り出して7分30秒。57分の「室根~」は、ぎったぎったに切り刻んで22分。それでも室根はちゃんとした短縮版の体をなしている。返って端的で分かり易い。「遥かなる~」は現在作業中。
 「むろね」を切りまくっていてあるモノを発見した。ある者である。
室根の荒まつりは、四年に一度室根山の神社から神様を神輿に乗せて町まで降ろすお祭り。本宮と新宮があり、それらが競い合って町に作られたまつり場までやって来る。まつり場には、青森の山内丸山縄文遺跡に栗の木で再現された櫓と良く似た形の櫓が作られていて、そこへと神輿を担ぎ上げる。その担ぎ揚げで揉め事が起こる。総代や頭取がまつり場で話し合う。
 もめ事をどう納めるかを、民映研だけでなく各社のカメラも詰め寄る。当然、相打ち状態となり、他社のカメラやスタッフが民映研のキャメラにも入り込む。それは致し方ない。相手のビデオカメラには民映研のキャメラが写っているのだろうから。お互い様である。
 ところがその場面をストップしてよくみると、知った人がど真ん中にいる。あれ?なんだよ!なんであなたがそこにいるのよ!スタッフは自分のチームのキャメラの横か後ろでしょ!前にでちゃだめだ!あーあ、しかも真ん中。夕方のローカルニュースにもきっと流れたな。
あーあ、真ん中だ。
 若き日の所長姫田がそこにいた。事の成り行きを興味深げに覗いている。あーあ、撮影している事は忘れちゃってるな。イレギュラーな揉め事だからね、そりゃー楽しいさ。
 編集ポイントを少し戻って良ーく見ると、遠くからこの事件現場に近づいて来る所長姫田も見える。
 まー撮影現場では想定外の事が色々起こるのです。
をはら筆
映像作品から

十八鳴浜

2011/04/05 Tue 23:17

 民映研のフィルム作品ラインナップを眺めるとちょっと異質な作品がある。作品番号56「わたしたちのまち・自然・いのち」がそれである。トヨタ財団から依頼されたちょっとしたイメージ作品である。取材地は東京、長崎、青森、宮城の4カ所。それぞれに地域に根ざした活動をしている人々がいてそれが取材対象でした。
 東日本東北大震災大津波の被害にあった場所が取材地の一つ宮城県気仙沼市の離島・大島にある十八鳴り浜(くぐなりはま)でした。海岸の砂浜を歩くときゅきゅきゅと鳴る。砂を踏む鳴るのです。宮城県内には他にも鳴く砂の浜があり全国にも何カ所かあります。砂が鳴くには砂粒一つひとつが清潔でなければならないのです。美しい砂粒が揃うと砂同士が擦れる事できゅっと音が出る。砂を踏み音が鳴ると言う事は、その浜が非常に美しいという勲章のようなもの。撮影時は歩くと音が鳴るのが楽しくてうろうろ歩き回った事を覚えています。
 その十八鳴り浜も津波の被害を受け、無惨な状況のようです。あの浜に音が戻るには何十年何百年という時間が必要でしょうね。残念です。いやいや、三陸津波は昭和にも明治にもありました。十八鳴り浜はそれらを体験している筈です。という事は以外と早く再び鳴くのでしょうか。
をはら筆
映像作品から
テレビで東日本大震災大津波の被災地の幼稚園児に将来の夢を尋ねていた。
「自衛隊に入って人を助ける仕事がしたい」との答え。そうなんですよ、この位の子供は働きが明快に分かる仕事が一番かっこ良く見えるんです。映像業界で考えると、スタジオで仕事をしていると子供は必ず「照明さんがいい」といいと言うんです。実際、他のスタッフがじっと待っている中、汗だくで縦横に働くのは照明担当者たちナノです。そりゃーね、キャメラの横に座ったまんまの私なんかに、あーでもないこーでもないと言われて手直しを繰り返したりする訳ですよ。私の印象は悪くなり、働き者は憧れられるって事なんです。
 今日は「新編・粥川風土記」改編 の三つ目の作品「シシ垣」を編集しました。
 粥川は田畑地はとても狭い。目の前は粥川で背後にはすぐ山。その山からイノシシ、シカ、サル、クマなどが農作物を狙ってやって来る。なんとか被害を受けないように、石垣をつくりトタン板で塀を作り田畑を囲って守って来た。自然と共存しながら、自然と闘って来た。自然はしっかり向き合わなければ、人間なんてペシャンとやられてしまうのです。作っても作っても野生にみんな食べられてしまうのです。
 テレビで94歳のおばあさんが「二回津波にやられてやり直して、また津波にやられた。何もなくなった」と言っていた。おばあさんは自然をバカになんかしてないでしょ。きちんと向き合っていたと思いますよ。でもやられちゃうんですね。
 やられてもやられても向き合っていくのが、人なのでしょうか?津波にやられてしまいましたが、3回目のやり直しを始めるんですよ、おばあさんは。5歳で人を助ける仕事に目覚めた子供が明日を支えてくれますね。せめて、その子らがきちんと大きくなれる社会を用意してやらなければ。
をはら筆
 
映像作品から
「新編・粥川風土記」改編の短縮版編集作業の続きを行う。84分から三つの部分をそれぞれ2分30秒の短編にするのですが。これが、なかなか、そう簡単な話じゃない。かなり思い切りが良くないと先に進まない。ぐちぐちなんだかんだと欲をかいているとだめなんだな。その点私は理想的な性格で、ばっさり切り捨てる事が出来る。
 選ばれたパートは「きんま」と「いかだ」と「シシがき」。きんまは14分、いかだは28分、シシがきは16分。このままでも十分短編映画になる。今日はきんまといかだが完成。
 「きんま(木馬)粥川風土記より」は小酒井貫一おじさんが、林道から遠く、荒れてしまった山を一人で間伐し材を下へ降ろすきんま道を作り降ろす話。鉄道の線路のような物を間伐材を利用して延々と作る。その上を木ソリに乗せた間伐材を滑らせて運ぶ。まあ、気の遠くなるような作業である。微妙な勾配を付け余計な力を必要とせず、暴走もしないように作られているきんま道。凄い知恵とテクニック。
 「イカダ流し 粥川風土記より」は山から伐り出した材木を長良川に集め、イカダに組み立てて美濃の関まで流した技術の再現。丸太を6本と5本を集めたイカダを縦に三つ連結してひとつとする。前後に櫂があり船頭は二人。太い藤づるを裂いたもので結束。丸太は重量物だからトラックがない時代は、川に浮かべて運ぶのが理想的だったのだろうが、瀬など浅くて波立つ場所の通過には勇気がいる。凄い度胸とテクニック。
をはら筆
映像作品から

「新編・粥川風土記」改編

2011/03/27 Sun 10:40

民映研製作の長編記録映画『粥川風土記 -岐阜県郡上市美並町高砂-』は2時間42分の長編。所長姫田の作品としては久しぶりの大長編作品。その作品はDVD化と共に短縮版を編集しました。監督の思いが強く些か長い作品は申し訳ありませんががっつり切らせて頂き、84分にしました。それが「新編・粥川風土記」です。その新編・粥川風土記に再びハサミを入れる事になりました。
 長編記録映画「越後奥三面 山に生かされた日々」も今風に呼べばスピンオフ作品があります。「奥三面の「ドォ」つくり」「奥三面の熊オソ」「山人の丸木舟」「ぜんまい小屋のくらし」の4本の短編がそれです。これらと同じように「新編・粥川風土記」からのスピンオフ作品を作ります。これは展示映像として利用される予定のもので2分30秒の長さです。昨日「きんま」を主人公にした作品を作りました。これから「筏」を主人公にしたものを作りまーす。
をはら筆
映像作品から
福島で撮影された民映研の記録映画について、お問い合わせがありました。
ブログにも掲載させていただきますね。
『からむしと麻』は、4月8日(金)銀座吉水にて上映予定です。


より大きな地図で 福島県で記録した民映研の映画作品 を表示

作品5『奥会津の木地師』
(1976年/55分/自主制作/福島県南会津郡田島町針生)

作品35『金沢の羽山ごもり』
(1983年/36分/福島市教育委員会委嘱/福島県福島市金沢)

作品49『田島祇園祭のおとうや行事』
(1984年/50分/田島町教育委員会委嘱/福島県南会津郡田島町)

作品63『からむしと麻』
(1986年/55分/自主制作/福島県大沼郡昭和村大芦・大岐)

作品69『茂庭の炭焼き』
(1989年/32分/建設省東北地方建設局摺上川ダム工事事務所委嘱/福島県福島市飯坂町茂庭梨平)

作品70『奥茂庭―摺上川の流れとともに』
(1989年/52分/福島市教育委員会委嘱/福島県福島市飯坂町茂庭・屶振・梨平・名号)

作品80『麟閣―千少庵の茶室』
(1990年/11分/会津若松ライオンズクラブ委嘱/福島県会津若松市)

作品85『茂庭のしなだ織』
(1991年/31分/建設省東北地方建設局摺上川ダム工事事務所委嘱/福島県福島市飯坂町茂庭)

作品89『茂庭の焼き畑』
(1992年/40分/福島市教育委員会委嘱/福島県福島市飯坂町茂庭屶振)

作品92『茂庭のくらし―狩猟・漁労・採集』
(1993年/52分/建設省東北地方建設局摺上川ダム工事事務所、福島氏教育委員会委嘱/福島県福島市飯坂町茂庭)

作品56『わたしたちのまち・自然・いのち』
(1985年/34分/トヨタ財団委嘱/長崎県長崎市・宮城県気仙沼市・青森県上北郡天間林村・東京都世田谷区)

作品57『陸奥室根の荒まつり』
(1986年/57分/室根村教育委員会委嘱/岩手県東磐井郡室根村/宮城県本吉郡唐桑町舞根)

(文・事務局C)
映像作品から

日の目を見る6

2011/03/24 Thu 16:14

蘇り1
 2010年所長がひょんな事からひょんなものを拾って来た。
 20年前に火災罹災した日本民家園の旧太田家。復元作業の隊長・中村棟梁は張り切って仕事し無事に罹災する前の状態になり、20年の歳月がいい感じに作用して罹災した事など忘れて17世紀から川崎に建っていた様な佇まいでそこにあります。
 その復元作業を民映研は中村古建築と共同で、民家園の協力もあり映像記録してきました。しかし、記録したで時間は止まりました。映像制作の作業には大きく二つの行為に分ける事が出来ます。先ずその1は何か撮影対象を見つけて撮影するまで。その2は撮影された素材を編集し映像作品として観られる状態にするまで。今回の旧太田家は「その1」で作業が止まってしまいました。理由はただ一つ、経済的な問題です。そのまま、だんだんじわじわ人々の記憶から薄れて行き気が付けば20年の歳月。
 放射性物質にも半減期がそれぞれにあり、だんだんじわじわ放射線等は減って行きます。世の中、大概はそんなルールで動いています。いつまでもしつこく覚えていてもしょうがない事はたくさんありますしね。忘れては行けないと言われた事も、忘れてしまうので、人間は性懲りもなく戦争を続けてしまうのです。
 しかし、民映研には、その世間のルールが通じない人物がいます。所長の姫田です。記憶力がいい。執念深く様々な事を覚えている。その所長の記憶の片隅には、いつも途中で止まっている作品の事があるのです。いやいや、あるらしいのです。旧太田家の事もそうでした。
 で、ある時川崎市長と所長が出会いました。そこで所長はかくかくしかじかと旧太田家の差材が中に浮いている話を持ちかけたそうです。「ほー」と市長も呼応し映像制作の「その2」を実行する予算を捻出する約束をしてくれたそうです。自治体の扱う金額で考えればそれほどのものではありませんが、それなりの予算を必要とするのです。所長と市長が出会ってからしばらく時間がたち、あれあれ、またまた人々の記憶からそんな出来事も消え去ろうかと思う頃、突然具体的になった旧太田家の記録映像制作の話が川崎市からやってきました。
 「うあわー」そりゃーやりますよ。その1で止まったままなんて駄目ですから。でもアナログベーターカムで収録したテープが58本あります。この20年前の素材を誰が構成編集するのか。それが問題である。
撮影したのは、カメラマンの伊藤さん澤幡さん村松さん。演出は所長と青原さん。5人のスタッフがいます。まず撮影の村松さんは、当時は助っ人カメラマンとして民映研の作品に多く関わっていた方ですが、主要スタッフではないので×。青原さんはこのブログでも書いている通り、広島在住で「たけやね里」など自身の作品に取り組んでいるので×。伊藤さんは民映研をリタイアしているので×。澤幡さんは構成編集の仕事を基本的にやらないので×。所長は構成も編集も出来ますが最新機材に疎いので誰かがオペレートしなければならないので×。撮影に参加した5人のスタッフは現時点では全員×。おー、どうするのよ!現状で民映研で構成編集作業が出来るのは、先頃退所した今井さん、姫田蘭さん、をはらの3名。今井さんは仕事もあり×。蘭さんかをはらかと選択肢はどんどん狭くなる訳です。で、私が構成編集を担当する事になりました。
 民家園に展示されている旧太田家を見学した事もなく、20年前に撮影を行っていた事自体を知らない私ですが、撮影済みの素材を編集する事は出来るのです。ただし、今更素材を膨らますというアイデアはありえません。工事は20年前に終わっていますから、再撮もなし。あるものだけで勝負する訳ですね。
 ところで、抜群の記憶力でこの編集作業を生み出した所長ですが、なんでもかんでも記憶している訳ではありません。だってなんでも覚えていたら脳みそばーんですよ。まあ、早い話が自分に都合の悪い話は適当に忘れていますが。あーもちろん所長は否定する話ですが。・・・つづく
をはら筆
映像作品から

日の目を見る5

2011/03/22 Tue 16:15

事の始まり5
 真っ黒ではあるが焼け残った柱や梁を再利用して分棟型民家を再現する事に決まりました。川崎の消防の活動が素早く火の手を食い止めた事が幸いでした。一棟はまるまる残った訳ですからね。火災後結成された調査委員会の活動も素早かったようです。焼け残りを丹念に調査した結果、特に全焼して失った部分の多くは近年補修された部材が多い事も幸いだったのかも知れません。具体的には調査を踏まえ、中村古建築の中村棟梁が再建に向け作業を始めたのでした。
 民映研では、川崎市立日本民家園の仕事を二回行っています。旧岩澤家住宅の復元(作品81)と旧原家住宅の復元(作品87)の二作品。その復元作業も中村棟梁の仕事でした。今回は正式な記録作業の依頼は日本民家園からはありませんでした。罹災復元工事の記録作業予算なんて普通ありません。しかし「これはよー記録した方がいいんじゃねーか」って中村棟梁が東京弁で民映研に持ちかけてきたのです。そこで、中村古建築と民映研共同で記録撮影を行う事になったのでした。
 それが平成2年7月に火災罹災した川崎市立日本民家園収蔵「旧太田家住宅」復元作業の事の始まりです。記憶も曖昧な、今から20年前のお話。・・・つづく
をはら筆
 
映像作品から
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