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イチロー

2011/03/07 Mon 11:22

記憶は曖昧で定かではないのだが、1984年の春頃、東京都新宿一丁目にあった民族文化映像研究所の扉を開けた。
ある人の紹介で「やたら硬い映像を制作している会社があるから言ってみたら」と紹介された。当時はテレビで二時間ドラマというのが、流行っていて学生アルバイトでそれらの現場にいた。まだビデオ収録ではなく、16ミリ映画カメラで撮影していた。大相撲ダイジェストなんて番組もあり、これも16ミリで撮っていた。取り組みの度にフィルムの交換をするアルバイトをしたりもした。ドラマの撮影現場から、劇映画の世界へ行こうと考えていたのだが、劇の撮影はかなりルーチンワークな部分が多く、少々性格に合わなかった。そこで、同じ撮影の仕事、同じカメラを使うドキュメンタリーの世界に興味を持った。特に記録物が好きだったなんて事は一切ない。何も知らなかった。
当時の民映研はモルタル二階建て外階段二棟連結という、極めて安っぽい所に居た。(今は遥かに贅沢な空間にいるのです)
ドアを開けた。石油ストーブの匂いがした。目つきの悪い男が二人いた。「しまった!いけない扉を開けたのかもしれない」と心のどこかで思ったような気がする。
所長は不在だった。仕事はないけどと言いながら、いろいろと話をしたような気がする。そこに居たのは、伊藤碩男と澤幡正範。偶然、カメラマンが二人いた。実際当時の澤幡さんは殆ど海外にいた印象。その後私が民映研に出入りするようになっても滅多に会わなかった。
何も知らない学生の目にも、かなり変わった空間であり人々だった。
それでも、鹿児島での仕事に伊藤さんに連れていってもらい、民映研との仕事が始まった。
撮影アシスタントをしながら、そこで仕事も見つけた。のちに「越後奥三表~山に生かされた日々~」となる作品のラッシュフィルムの山を見つけた。誰も触れない禁断のフィルムって感じのややこしそうな代物だと感じたのはしばらくたってから。知らぬが仏で、そのラッシュフィルムの整理は始めた。
あれから、27年。
本日3月7日。私は、誕生日を迎え51歳になった。当時の伊藤さんよりも年上である。
目つきが悪くなっていないか心配だ。

をはら筆
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民映研の日常
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